命数

正岡子規

 

浮世をば 球一筋の 男かな

のらくらと 浮世を球の 果報者

何事も 球に任せた 吾が浮世

満ち足りし 事なかりしか 野球也

大下弘『日記』

 

 芥川龍之介は、『文芸的な、余りに文芸的な』において、正岡子規の写生文について次のように書いている。

 

しかし僕の言いたいのは「しゃべる」ことよりも「書く」ことである。僕等の散文も羅馬のように一日に成ったものではない。僕等の散文は明治の昔からじりじりと成長をつづけて来たものである。その礎を据えたものは明治初期の作家たちであろう。しかしそれは暫く問わず、比較的近い時代を見ても、僕は詩人たちが散文に与えた力をも数えたいと思うのである。

 夏目先生の散文は必ずしも他を持ったものではない。しかし先生の散文が写生文に負う所のあるのは争われない。ではその写生文は誰の手になったのか? 俳人兼歌人兼批評家だった正岡子規の天才によったものである。(子規はひとり写生文に限らず、僕等の散文、−−口語文の上へ少からぬ功績を残した。)

 

 ここで芥川は日本近代文学史を展開し、散文の源泉を明らかにして、漱石の「写生文」は子規の「写生文」なくしてはありえなかったと指摘している。確かに、芥川の言う通り、子規の革新運動は夏目漱石にとどまらず、日本近代文学の散文に、二葉亭四迷の言文一致運動などとならんで、決定的な影響を与えた。しかし、漱石の文体は、後の日本近代文学の散文では、むしろ、主流にはならなかったのである。漱石の文体を批判する書き手によるものが、中心になって、日本文学の散文を形成していった。それは、彼らの「写生文」が、本来、近代的自我の問題などを描く近代小説を日本文学にも登場させることを目的としていたのではなかったことが誘引した結果でもあった。子規の「写生文」は、二葉亭の場合とは違って、散文や小説の改革として唱えられたものではなく、根本的には彼の俳句の革新に由来するのである。

 ドナルド・キーンは、『子規と啄木』において、近代日本文学史への子規の功績を次のように述べている。

 

日本の詩歌の革新は、正岡子規という、明らかに近代人でありながら、過去の伝統にも精通している人間の出現を待たなければならなかった。彼は近代人であったために、短歌と俳句で旧態に固執する人たちを攻撃しないではいられなかったが、同時に日本の伝統に深く根ざ差した精神の持主だったために、短歌や俳句をそのものを破壊するというようなことはなかったのである。子規は新体詩を作ることも試み、文学の将来は詩よりも小説にあるという意見に傾いたこともあった。しかし短歌と俳句は彼にとって息をするのも同然に自然な形式であったので、それを用いて歌うという衝動を抑制はし得ても、それを抹殺することは出来なかった。

 短歌や俳句の表現の可能性の限界に束縛されて、子規は詩的表現の新しい可能性を十分に試みることが出来なかったかもしれないが、彼は同時にこの二つの形式を復活させることに成功した。

 明治の初頭、短歌も俳句も、新しい日本人の複雑な感情を叙述するには不適当だという理由から、文学的形式としては衰微するであろうと思われた。子規と啄木とは、それが真実でなかったことを証明し、古典的な短歌、俳句の形式に新たな生命を与えたのではあるが、同時に、日記や随筆において、新しい日本文学の分野を示唆している。その新しい日本文学の中では、短歌や俳句はそれほど大きな地位を占めるものではない。その理由は、新しい他の分野が、伝統的日本との関連よりも、世界の他の国々の文学と共通とするところが、より多いからである。

 

 子規は壊滅的状態にあった俳句や短歌に、日本近代詩歌の歴史において、新たな転回を迎えさせ。彼がいなかったなら、日本の詩の歴史も、今ごろ、かなり変わった様相を呈していたことだろう。その子規の文学革新運動は俳句、短歌、写生文に及び、「新しい日本文学の分野を示唆」することとなるが、核心は俳句なのである。子規は、『墨汁一滴』の中で、学生時代に試験勉強の時期になると、俳句をよくつくりたくなったと回想しているものの、短歌を詠んだとは言及されていない。また、絶筆も俳句三句であるし、さらに、彼の生涯につくった短歌が二三三九首であるのに対して、俳句は一八〇五六句である。子規にとって、俳句が終生重要であったことはこうした点からも理解できるであろう。彼は、つねに俳句を意識しつつ、短歌や散文を考えていた。つまり、子規は俳句における写生の認識を短歌、散文へと拡大したのである。

 そうなると、子規にとって短歌より俳句のほうが重要だった理由は何なのかという問いが現われてくる。かりに最初は大した理由がなかったとしても、なぜ子規が生涯に渡って惹かれたのが短歌ではなく、俳句なのかということは一つの疑問である。ある文芸様式を意識的に選択し、それに対処したかということは、その様式の原理が彼の精神のありように抵触した表われにほかならない。子規にとって、俳句と短歌の間にはある明確な差異があり、それが彼に俳句を選ばせたのだと考えざるを得ない。従って、俳句と短歌の違いに着目する必要がある。

 ネフローゼのため四年もの間入院生活を送っていた経験を持ち、俳句から出発し短歌、散文、演劇へと移行した寺山修司は、対談『ツリーと構成力』において、俳句を短歌と比較して、次のように述べている。

 

 俳句の場合、たとえば西東三鬼の「赤き火事哄笑せしが今日黒し」でも、島津亮の「父酔いて葬儀の花と共に倒る」でも、一回切れるでしょう。そこに書いていない数行があるわけですよね。要するに系統樹は見えない。そこが読み手によってつくり変えがきく部分を抱えているんじゃないかと思う。短歌は、七七っていうあの反復のなかで完全に円環的に閉じられているようなところがある。同じことを二階繰り返すときに、必ず二度目は複製化されている。マルクスの『ブリュメール十八日』でいうと、一度目は悲劇だったものが二度目にはもう笑いに変わる。だから、短歌ってどうやっても自己複製化して、対象を肯定するから、カオスにならない。風穴の吹き抜け場所がなくなってしまう。ところが俳句の場合、五七五の短詩型の自衛手段として、どこかでいっぺん切れる切れ字を設ける。そこがちょうどのぞき穴になって、後ろ側に系統樹があるかもしれないと思わせるものがあるんじゃないかな。俳句は刺激的な文芸様式だと思うけど、短歌っていうのは回帰的な自己肯定が鼻についてくる。

 

 短歌は五七五七七の三十一音であり、俳句はそれよりも短い五七五の十七音である。俳句にしても、短歌にしても、五音と七音の組み合わせによって構成されていることは同じなのだ。しかし、短歌読解と俳句読解にはそれぞれの音の数からはっきりとした違いがある。俳句は季語がある場合にはそれを見つけ、季節感を把握する。名詞を用いる凝縮された表現に基づいているから、想像力によってその圧縮されたものを膨ませ、背景・イメージを描かなければならない。また。切れ字に注目して、句の中心をつかむことなどが要求される。一方、短歌はそこに詠まれている季節や場所、時刻をみつけ、句切れによって短歌の構成をつかみ、表現されている情景・イメージを明らかにする。そして、句切れや繰り返し、母音、子音の表われ方によってそのリズムつかみ、文法的構成を明確にし、意味上の歌の中心的語句を把握しなければならない。こうした点から、俳句は短歌よりもたんに十四音だけ短いというだけではなく、俳句は、短歌以上に、名詞中心の文学であり、禁欲的な表現形式をとっているのであるため、俳句の短さは短歌に対する反措定の機能があるのだ。短歌の五七五七七が俳句の五七五となるとき、七七とともに短歌はその自己回帰性を奪われる。短歌において、七七は五七五の形式的かつ相槌的な反復にすぎない。短歌は一人遊び、すなわち自己充足の文芸様式なのである。一方、俳句は自己に回帰することなく、ベースボールのゲームが二つのチームによって行われるように、他者へと向かうのだ。つまり、子規が短歌以上に俳句のほうに関心を払っていたのは、短歌が俳句を反復したものだからである。

 子規以前は歌人は歌人であり俳人は俳人であって、一人で両者を兼ねることはなかった。形式的な差異以上に、俳句と短歌の間には隔たりがあったのである。寺山修司は、日本近代文学史において、最も(極めて広範囲に渡る)過去の作品に、それを肯定するにしろ否定するにしろ、依拠する書き手の一人であり、彼は既存の俳句をモチーフにして短歌をつくったことによって不当な非難にさらされたが、彼の試みこそが、俳句から短歌、散文さらに演劇へと転回していった経緯を考慮しても、最も子規の意義を受けとめていたと言っていいだろう。

 俳句を選んだ子規は俳句を文学ジャンルとして分類することを出発点とした。文学ジャンル論は実用主義・機能主義的考察ではなく、文学的な言語使用と非文学的なものの区別や文学に含まれるさまざまな様相とその記述的分類、さらにそこから導き出せる規範的規則を対象とする。それは美的価値をふりまわして理論化を妨げる審美主義者にとっては野暮の骨頂にすぎない。子規を詩と区別する短歌や俳句の始祖とするのは、彼が俳句や短歌を従来構成していた領域と詩の領域の問題を解明したのであって、解消したわけではない以上、誤謬である。また、彼は俳句や短歌の基礎づけをしたために、俳句や短歌には、本来、不適当な議論を引き入れてしまったわけでもない。彼は、むしろ、俳句や短歌を詩の一つの様式にしようとしたのだ。俳句は、世界的に見ても、最も短い文芸形式であるが、それを詩にしようとするならば、「詩とは何か」、「俳句とは何か」、「短歌とは何か」という定義やカテゴリー化の問いに接触せざるを得ない。

 子規は、『俳諧大要』第二において、俳句を他の文学様式と比べて次のように述べている。

 

俳句と他の文学との音調を比較して優劣あるなし。唯唯諷詠する事物に因りて音調の適否あるのみ。例えば複雑せる事物は小説又は長編の韻文に適し、単純なる事物は俳句和歌又は短編の韻文に適す。簡樸なるは漢土の詩の長所なり、精緻なるは欧米の詩の長所なり、優柔なるは和歌の長所なり、軽妙なるは俳句の長所なり。然れども俳句全く簡樸精緻、優柔を欠くに非ず、他の文学亦然り。

 

 短歌と俳句の区別は従来の日本文学の枠組みで可能であるが、西洋詩が文学としてそこに入ってきたとき、今度は短歌や俳句がそれに対して相対化される。明治になるまでにあった詩はあくまでも形象によってイメージさせる漢詩であり、俳句や短歌は漢詩なくしてはありえなかったが、それは言文一致という問題の外にあった。文学のジャンル化は言文一致運動と不可分の関係にある。俳句はそれまで音声と形象によって訴えていた。例えば、有名な芭蕉の「夏草や兵どもが夢のあと」という句にしても、「兵」を「へい」ではなく、「つはもの」と読ませているし、また蕪村の「さみだれや大河を前に家二軒」という句にしても、「大河」を「おおかわ」ではなく、「たいが」と読ませている。このように俳句は音声だけでなく、漢字の形象によってイメージさせるのである。言文一致は音声と形象の分離を内包しており、西洋詩において問題にならない俳句や短歌の自明の条件を脅かすことになり、ジャンル化が迫られることになる。そして、俳句がジャンル化され、文学の一つとなったとき、文学理論が適用できるようになるのだ。

 言文一致に関心を払っていた子規は、俳句を文学ジャンルの一つとして分類することによる文学・芸術理論を適用させる可能性を次のように言っている。

 

俳句は文学の一部なり。文学は美術の一部なり。故に美の標準は文学の標準なり。文学の標準は俳句の標準なり。即ち絵画も彫刻も音楽も演劇も詩歌小説も皆同一の標準を以て論評し得べし。

(『俳諧大要』第一)

 

俳句の標準を知りて小説の標準を知らずという者は俳句の標準も知らざる者なり。標準は文学全般に通じて同一なるを要するは論を俟たず。

(『俳諧大要』第七)

 

 新体詩派のように、短歌や俳句を否定することがジャンル化することではない。新体詩派にとって、ジャンルなどという差異は邪魔者以外の何ものでもなかった。藩が廃止されて、明治政府の下に中央集権化されたように、短歌や俳句など撲滅し、一つの文学様式だけ残るべきだという衛生学的なドグマをたてた新体詩派は、その意味において、ロマン主義的である。新たな文学運動は、一般的には、形式そのものが虚偽であると言わないまでも、既存の形式に対する不信感や不満をその根底に持ち、別の形式のあり方を創出するものである。形式は、俳句や短歌において、約束であるが、古い約束を結ぶ代わりに、約束のない自由な世界を新体詩派は望んでいるのだ。近代的自意識の問題としての自由は運命と対立するが、明治以前までは、自由と運命は対立する概念ではなかった。俳句にしろ、短歌にしろ、さまざまな規則や決まりごとによる必然性の中でその必然性をいかに認知することが求められていた。作者の自由はその形式の中でどうつくるかということであり、彼らに形式を改変する自由など認められなかった。子規は、彼らから見れば、形式よりも対象をその文学の論理として依拠しているということになろう。だが、子規の企ては、まったくと言っていいほど理論化しなかった新体詩派に対して、はるかに攻撃的な結果をもたらすことになったのである。ジャンル化されることによって、俳句や短歌に文学理論が導入できることになった。と言うのも、分類化とはそれぞれのジャンルが特権的・自律的に存立しているのではなく、いかなる差異性といかなる同一性の下に関係しあっていることを明らかにすることだからである。従って、子規を西洋詩と区別する短歌や俳句の始祖とすることは、彼が諸ジャンルをを差異化することに関心があったのであり、俳句や短歌に関する近代文学理論の産みの親と子規をすることはできるが、見当はずれであることがわかるだろう。言ってみれば、それはアリストテレスを哲学の始祖とするようなものであるから。

 明治維新後、さまざまな輸入品が外国から入り、と同時に、日本語をめぐる変容も、意識的にしろ、無意識的にしろ、起こり始めていた。子規は、その変化に対して、新体詩派のように従来の文芸様式を捨てることに同意しなかったものの、アンシャン・レジウムの支持者たちのごとく変化そのものを黙殺することを主張したわけでもなかった。彼は両者とも別の反応を示したのである。

 子規や新体詩派の運動を含めた明治の詩の改良は言語の改良から派生した。いわゆる鹿鳴館時代と呼ばれる近代国家としての諸制度が確立されつつある時期である明治十年代後半に、「かなのくゎい」や「羅馬字会」といった漢字廃止を唱える団体が結成された。西洋に追いつくためには書記的文字である漢字を捨て、音声的文字の導入が不可欠であると考えられたのである。彼ら自身の主張は、結局、挫折したが、話し言葉と書き文字との乖離において話し言葉への着目という認識として生き残る。それまで絶対的であった漢字の優位は崩れ落ちることになったのである。

 漢字廃止の提言を受けて子規は、『墨汁一滴』三月十一日付において、次のように日本語の表記法の改革を主張している。

 

漢字廃止、羅馬字採用または新字製造などの遼遠なる論は知らず。余はきわめて手近なる必要に応ぜんために至急新仮字の製造を望む者なり。その新仮字に二種あり。一は拗音促音を一字にて現わし得るようなるものにして例せば茶の仮字を「ちゃ」「チャ」などのごとく二字に書かずして一字に書くようにするなり。「しょ」(書)「きょ」(虚)「くゎ」(花)「しゅ」(朱)のごとき類皆同じ。促音は普通「つ」の字をもって現わせどもこは仮字を用いずして他の符号を用いるようにしたしと思う。しかし「しゅ」「ちゅ」等の拗音の韻文上一音なると違い促音は二音なればその符号をしてやはり一字分の面積を与うるも可ならん。

 

 他の一種は外国語にある音にしてわが邦になきものを書きあらわし得る新字なり。

 

 これらの新字を作るはきわめて容易のことにしてほとんど考案を費さずして出来得べしと信ず。試みにいわんか朱の仮字は「し」と「ュ」または「ゆ」の二字を結びつけたるごときものを少し変化して用い、著の仮字は「ち」と「ョ」または「よ」の二字を結びつけたるを少し変化して用いるがごとくこの例をもって他の字をも作らば名は新字といえどもその実旧字の変化に過ぎずして新たに新字を学ぶの必要もなくきわめて便利なるべしと信ず。また外国音の方は外国の原字をそのまま用いるかまたは多小変化してこれを用い、五母音の変化を示すためには速記法の符号を用いるかまたは拗音の場合に言いしごとく仮字をくっつけても可なるべし。とにかくに仕事は簡単にして容易なり。かつ新仮字増補の主意は、強制的に行わぬ以上は、誰一人反対する者なかるべし。余は二、三十人の学者たちが集まりて試みに新仮字を作りこれを世に公にせられんことを望むなり。

 

 子規は漢字廃止に賛成してはいない。仮名文字やローマ字採用に対して、子規は現在の表記が不十分であるならば、表記を簡略化するなり、文字を増やせばよいと主張する。日本語では漢字仮名交用という慣習があるが、むしろ、子規はそれに肯定的なのである。子規は、二葉亭とは違って、話し言葉と書き言葉の区別・統一を問題にはしていない。言文一致は話し言葉と書き言葉の関係の変容であり、表記を当時の西洋的な言語のものに近づけることを意味している。話し言葉と書き言葉は、それが行為として異なっている以上、一致することは不可能である。言文一致運動がさまざまな方角から模索されていた時期に、こうした見解を書くことは保守的であるかに見える。だが、彼の新しい文字を創造することへの提言ははるかに根源的であり、言文一致運動や平仮名のもたらす内面と外界との直接的・自然的密着に関する幻想から自由である。子規は、自然主義文学者たちと違って、近代的自意識やロマン主義的内面とは無縁だった。話し言葉を書き言葉にするということはロマン主義的内面化であるけれども、彼は、「外国音の方は外国の原字をそのまま用いるかまたは多小変化してこれを用い」ることを述べているように、外来語を内面化させることを拒絶している。子規にとって、言語は内面の表出や自己表現などではなく、それはたんに用法を意味しているのだ。子規が即物的に表記方に目を向けたのは、それが言葉の用法が問題にしているからである。ここでの彼の理論は、文学ジャンル論の場合と同様、対象の定義に限ったものではない。表記法は実用主義的・機能主義的な書き文字の理論化である。子規の意見は言語の対象指示を直観としてではなく、その機能として考えるような表記法である。つまり、子規の表記法についての意見はプラグマティックな意味からなされているのだ。

 子規は、『歌よみに与うる書』において、万葉調を賞賛し、古今調を否定した。子規の試みが伝統との談合であるならば、こうした評価は賢明ではないだろう。彼が万葉を称えたのは、直観的ではなく「写生」的であるからというだけではない。それは、『万葉集』においては、新たな書き言葉が創出されているからである。子規の関心は外来的・土着的の区別に頓着せず、新たなものを創造することにあった。しかし、その企ては今あるものを完全に否定することではなく、現にあるがままを認めた上で、そこからありうる可能性を生み出すということだった。

 子規は、『墨汁一滴』六月十三日付において、日本について次のように書いている。

 

日本は島国だけに何もかも小さく出来ている代りにいわゆる小味などといううまみがある。詩文でも小品短篇が発達していて絵画でも疎画略筆が発達している。(略)何でもかんでも輸入して来て、小さいものを大きくし、不経済的なものを経済的にするのは大賛成であるが、それがために日本固有のうまみを全滅することのないようにしたいものだ。

 

 それについて思い出すのは前年やかましかった人種改良問題である。もし人種の改良が牛の改良のように出来るものとすれば幾年かの後に日本人は正用心に負けぬような大きな体格となり力も強く病もなく一人で今の人の三人前も働くような経済的な人種になるであろう。しかしその時日本人固有の禀性のうまみは存しているであろうか、何だか覚束ないようにも思われる。

 

 子規にとっての日本や日本人は、三島由紀夫や川端康成、小林秀雄にとってのそれとは、まったく異なっている。彼の日本や日本人は嫌悪や憐憫、自尊心、アイデンティティー、宿命の対象ではなく、自分が投げ入れられたただの現実にすぎない。それは大した意義も使命も帯びておらず、子規は義務など担う気はさらさらないのであって、権利を有しているだけなのだ。小さいことを改良して大きくしたとき、小さいことによって可能だったことは失われてしまうのであり、小さければ小さいなりのことができる。こうした主張はナショナリズムではない。ただ自らの可能性と限界を見誤るようなルサンチマンを持つなと言っているたけなのだ。言い換えるならば、自分の置かれた状況から始めるほかないのだということを肯定しているだけなのである。だが、それはなすがまま(現状)になれという受動的態度ではなく、あるがまま(現実)を是認することこそ望ましいという能動的なものにほかならない。

 望むと望まざると変化は明治の文学者たちに襲いかかった。新たな言葉が出現したり、新たな文体を生み出すなど文学は激変にさらされた。新体詩のような新たな形式を生じたと同時に、俳句や短歌は、新しい内容や語彙によって、活性化された。子規は短歌や俳句の形式に関しては従来通りの見解を保持していた。伝統的にはそれ自体では俳句的な意味を持っていない西洋から新たに輸入されてきたもの−−ベースボールや汽車、ランプ−−に関しても、形式を保持して散文的になってしまうということを避けさえすれば、詩にすることは可能だと考えていたのである。子規の考えた通り、今日では「ナイター」が−−山口誓子の「ナイターに見る夜の土不思議な土」、水原秋桜子の「ナイターの光芒大河へだてけり」、丸岡忍の「ナイターの群扇個々に動きだす」−−季語になっている。こうした認識が子規が過激派からは形式主義者と、教条主義者からは修正主義者と罵られる所以なのであるが。子規は和歌の腐敗について、「此腐敗と申すは趣向の変化せざるが原因にて、又趣向の変化せざるは用語の少なさが原因と被存候」(『七たび歌よみに与うる書』)、と言っている。「趣向」が「変化」したにもかかわらず、それをとらえられる「用語」がない。「和歌」の世界は歴史的・社会的変化を考慮せず、旧態歴然たる「用語」を、形式的に、ただもてあそんでいるにすぎないのである。だから、子規は、「用語は雅語俗語洋語漢語必要次第用うる積もり」(『六たび歌よみに与うる書』)、と述べている。「用語」は限定すべきではなく、その時々の「必要」に応じて、さまざまなタイプの言葉も俳句や短歌に用いなければならない。

 だが、俳句や短歌−−特に、名詞中心の俳句−−は、その短さのために、その言葉だけでは意味内容を十分に論じられないため、過去の作品に依拠せざるを得なくなる。俳句や短歌が描く自然は過去の作品によって描かれた自然、すなわち借景に基づいているのである。実際、芭蕉の句も過去の作品に描かれた名所や漢詩に依拠していた。子規は「自ら俳句をものする側に古今の俳句を読むことは最必要なり」(『俳諧大要』第五)と言い、さらには「古句を半分位窃み用うるとも半分だけ新しくば苦しからず」(同)、とまで主張している。

 江藤淳は、『リアリズムの源流』おいて、新たな「もの」の出現が子規の「写生」を派生させたのだと次のように述べている。

 

それは認識の努力であり、崩壊のあとに出現した名づけようのない新しいものに、あえて名前をあたえようとする試みである。いいかえればそれは、人間の感受性、あるいは言葉と、ものとのあいだに、新しい生きた関係を成立させようとする「渇望」の表現でもある。リアリズムという新理論が西洋から輸入されたから、リアリズムでやろうというのではない。「知らずや、二人の新機軸を出したるは消えなんととする灯火に一滴の油を落としたるものなるを」。彼らはものに直面せざるを得ない場所にいるから、「新機軸」を立てたのだと、子規は主張するのである。

 

 したがって虚子も碧梧桐も、「古来在りふれた俳句」を去って、「写生」におもむくほかない。芭蕉が確立し蕪村が開花させた俳諧の世界が、江戸期の世界像とともに「将に尽きん」とするとき、それ以外に俳句を、いや文学を蘇生させるどんな手段があるかと、子規は必死に反問しているように思われる。

 

 「写生」、すなわち「リアリズム」は一定の方法論を指すのではない。「リアリズム」は西洋から輸入された認識方法ではなく、新たな「もの」に直面したときに、それを描写」せんとしようとする新しい表現方法の名称にほかならないのだ。「リアリズム」は現に生きている世界への「人間の感受性」が要求する表現形式を表わすのである。つまり、子規の「写生」は、江藤淳によれば、「もの」と「言葉」の新たな関係を定立することであった。

 一方、渡部直己は、江藤淳の指摘を踏まえた上で、子規が俳句の分類から俳句に入っていったことを重要視し、『リアリズムの構造』において、彼の「月並」への批判に関して次のように述べている。

 

子規が「とらわれぬ眼で認識することの必要性」を痛感していたのは、彼が「ものに直面」していたからだ、と江藤淳は記す。だが、子規は何よりねまず言葉そのものにとらわれすぎる自分自身の過剰さに「直面」していたのだ。

 

 −−これらをたんに「月並」への全否定とのみ受け取ってはなるまい。結果的にはたしかにそうみえるが、子規にとって重要だったのは、いわば古さのただなかから新しさを定立することであり、「月並」を別物として全否定するというより、事はむしろ、「月並」に精通することがそのまま俳句の新生に通ずるような敵対の仕方にかかっていたのだ。「月並」との比較において(換言すればその比較においてのみ)、自派の価値が成立する点を知尽くしていた子規にあって、革新の努力とは、ちょうど彼の「俳句開眼」が、芭蕉以前の駄句の堆積と「猿蓑」との落差に促されてあったように、「月並」との差異を際立たせる一連の操作にほかならなかった。

 

 明治以前の文学は言語中心である。言葉の使い方がいかに粋かということが文学作品の評価の重要な基準であった。それに対して、明治期では言語に焦点を合わせる態度は、言語に対して無関心にふるまったロマン主義以後の批評・哲学に関しては革新的であるが、その当時は、むしろ、古典的である。江藤淳の主張は、子規よりも、ロマン主義文学を指していると言っていいだろう。ロマン主義は「月並」を描写することを重視したことから見ても、子規の「月並」への否定は「古さのただなかから新しさを定立する」ことを目指していた側面があったことは認められる。すなわち、「月並」を全否定してしまえば、何が「月並」で、何が「月並」ではないのか知ることはできないのであるから、「月並」を知ることは、逆説的に、「月並」ではないものを見出すことになる。子規にとって重要なのは、この逆説だというわけだ。実際、子規の生活にもこうした逆説は体現されている。子規は俳句や短歌という「古い」文芸をつくりながら、ベースボールという「新しい」スポーツを楽しんでいた。当時、ベースボールに熱狂するということは「月並」でなどなく、自転車に乗るどころの騒ぎではないほど、おそろしくハイカラで軽薄なことであった。つまり、最も「古い」ものと最も「新しい」ものが同時に子規において存在していたのである。

 確かに、子規の短歌や俳句は、「用語」の新しさを除けば、わりにオーソドックスであり、極めて過去の短歌や俳句に負うところが大きい。例えば、彼の「凩や禰宜帰り行く森の中」は芭蕉の「水とりや水の僧の沓の音」と離れたものではない。しかし、形式を維持しつつ「用語」を新たにすることだけが子規の俳句改革ではない。「写生」に基づいた子規の俳句はやはり伝統的な俳句とは、認識において、はっきりとした差異がある。

 子規は、『六たび歌よみに与うる書』において、「写生」に関する認識を次のように述べている。

 

生の写実と申すは合理非合理事実非事実の謂にては無之候。油画師は必ず写生に依り候えどもそれで神や妖怪やあられもなき事を面白く画き申候。併し神や妖怪を画くにも勿論写生に依るものにて、只ゝ有りの儘を写生すると一部一部の写生を集めるとの相異に有之、生の写実も同様の事に候。是等は大誤解に候。

 

 子規は、絵画の比喩を用いて、「写生」に関する理論を展開しているが、それは必ずしも絵画的であることを意味するのではない。「写生」は絵画を「合理」的・「事実」的に描かなければならないという考えではなく、絵画を「合理」的・「事実」的に認識することが必要であるという主知主義的な姿勢である。「写生」とは従来の俳句にあった反知性的である借景に対する批判を含んだ認識のありようなのだ。つまり、子規は認識と言語の知性による関係を「写生」と言っているのである。子規の言語に関する独自の感受性の原因を江藤淳が新たな「もの」の出現という外的要因に求めているのに対して、渡部直己は「言葉そのものにとらわれすぎる自分自身の過剰さ」という子規の内的要因に結論づけているが、それは、むしろ、彼の知性に生きる姿勢の表われなのだ。子規は「写生」を導入することによって知性に基づいていることや直截的であることを価値とした。「写生」は、その当時でさえも、すでに西洋でも日本でもありふれていた。「写生」を俳句において見出したことが彼の独創性である。

 子規は、直観的な芭蕉よりも写実的な蕪村のほうを評価していたように、解釈学的な意味よりも詩学的な評価を重視した。直観と写生はそれぞれ想像力と知覚に対応する。直観は(それが何を意味しているのかという)解釈学的領域に、「写生」は(それがいかなる効果をもたらしているのかという)詩学的領域に属している。知覚は経験を再構成する。そして、想像力は経験から可能性を探求する。知覚と想像力はまったく別のものとして切り離すことはできず、それぞれは相補的に機能している。つまり、知覚された経験を悟性が概念化し想像力がそれを構成するとしたカントの『判断力批判』とは逆に、子規の「写生」の立場は、知覚が経験したものを組織化し、想像力はその可能性と限界を模索するのである。

 詩学で着目されるのは技術であり、分類化はその技術の観点から諸々の作品を分析することにほかならない。子規は俳句を周到に分類している。彼は俳句を分類し、また俳句を文学ジャンルとして分類したのである。俳句の分類を横の機軸とすると、文学ジャンルによる俳句の分類は縦の機軸であり、それが子規の理論では交差する。彼の「写生」はこの分類から派生したものなのだ。俳句と短歌はそれまでは異質な世界に所属していたが、子規はそれを同じ世界に置いた。

 こうした分類化や俳句=短歌=散文に関する把握は、表面的には、系統樹的に見えることからも、子規が学生時代に愛読していたハーバード・スベンサーの社会進化論に影響を受けたものだと思われる。子規は『筆まかせ』の中に「最簡単ノ文章ハ最良ノ文章ナリ」というスペンサーの文体論を紹介している部分があり、この文体論が子規の革新理論の中核をなすものだと一般には考えられている。しかし、スペンサーからの影響はそれだけではない。スペンサーも主著『総合哲学体系』全十巻を分類から始めている。それは第一巻「第一原理」、第二・三巻「生物学原理」、第四・五巻「心理学原理」、第六・七・八巻「社会学原理」、第九・十巻「倫理学原理」という構成になっている。こうした分類はもともとは時間的であるが、それが空間的なものへと転換されている。スペンサーは、目的論的な進化論を退け、種が環境に適応するように、個人が社会環境に適応することによって、個人に対する社会の圧力が減少し、やがて国家が解体に向かい、社会における個人の完全な自由が実現する無政府状態が現れたとき、進化の最後の理想的段階である、と主張した。「地球、地球上の生命、社会、政治、製造、貿易、言語、文学、科学、芸術、そのいずれの発展においても、単純なものが順次次の分化を経て複雑なものに至るこの同じ進化があまねく見られる」(スペンサー「進歩について」『総合哲学体系』所収)。しかし、俳句は短歌よりも新しい文芸様式であり、なおかつ俳句は短歌よりも短い以上、「単純なものが順次次の分化を経て複雑なものに至る」とは必ずしも言えないことから、子規は明らかに進化論的ではない。むしろ、スペンサー以上に文学ジャンルの分類化を音韻や字数、すなわち言語に焦点を合わせた子規はこの時代にはまだ産声をあげていないロシア・フォルマリズム的もしくはニュー・クリティシズム的なのである。つまり、俳人や歌人としてよりも批評家としての子規は言語を問いにすることとなる二十世紀の文芸批評・哲学をはるかに先どりしているのである。

 子規のそうした文芸批評家としての姿勢が具体的な作家に向けられた作品として『俳人蕪村』があげられる。『俳人蕪村』は、今日に至るまで、最良の蕪村論であるが、子規は蕪村の作品に対して綿密なアナトミーを、芭蕉の句などと比較・検討しながら、試みている。子規は、『俳人蕪村』において、分析する際に、美を「積極的美」と「消極的美」や写実的な「客観的美」と直観的な「主観的美」、「天然的美」と「人事的美」、「作者の境遇」に関わる「実験的美」と「理想的美」、「外に広きもの」である「複雑的美」と「内に詳らかなるもの」である「精細的美」といった二つの視点から蕪村の句をわけている。両者に必ずしも優劣はなく、それぞれ対立・止揚の弁証法的イデーとして把握されている。また、「漢語・古語・俗語」の三つにわかれる「用語」や「言語の持続」である「句法」、「句調」や「動詞・助動詞・形容詞」といった「文法」、「材料」、「縁語及び譬喩」、「時代」、「履歴性行等」などの側面からそれぞれ分類・読解している。子規は、この批評において、まず作品を重視し、それを徹底的に細かく読んでいくことによって、作品の細部や微妙なニュアンスを把握する高級で洗練された技術を提示している。このように子規は蕪村をめぐって言語に対して焦点を合わせ、文法にまで拡大し、精読するという方法論を用いているのである。それをわれわれは「ジャパニーズ・フォルマリズム」と呼んでもいいだろう。

 こうした禁欲的な批評はその後日本では普及することはなかった。日本の哲学・文学は、むしろ、ヨーロッパ哲学・文学の(詩学の代わりに)解釈学を「王様の剣」(ウォルト・ディズニー)にした美学が読解の王座に君臨する「深い」読みに影響の源泉を求めることになっていくのである。

 子規は、スペンサーやベンジャミン・フランクリンから影響を受けていたように、ヨーロッパ志向の当時の日本の知識人としては例外的に、アメリカ志向だった。アメリカ人女性と結婚し、アメリカに住んでいたこともある新渡戸稲造ですら、『野球と其害毒』において、アメリカ人を「巾着切り」であり、「剛勇の気なし」と軽蔑している。子規は、後に詳しく述べるように、すべてに対して直接的で明確な場所で存在し、単純で明快な生の中で物事を思考していた。彼には不透明や不可解さ、混濁さ、深遠さ、難解さもない。だが、子規はフランス系のモンテーニュやパスカルなどといったモラリストのようにではなく、アングロ・サクソン系の書き手のように語るのである。彼らは経験的なものを解釈する。例えば、当時アメリカでベスト・セラーだったフランクリンの『貧しいリチャードの暦』には古今東西の格言や人生訓が挿入され、分別のすすめや民衆的ユーモアに溢れている。アングロ・サクソン系の書き手は自分の思考を生まれて死ぬまでの生活そのものから出発するのである。

 子規がアングロ・サクソン系の書き手に親近感を覚えていたのは、そこでは「言葉の意味は用法である」(ウィットゲンシュタイン)という思考に基づいているからである。子規の言語に対する感覚は、『俳人蕪村』が明らかにしているように、言葉の用法に向けられている。イギリスやアメリカでは大陸のような演繹的な法体系ではなく、法律と判例の累積によって法体系が構成されている。彼らにとって、法の意味とはその用法なのである。アングロ・サクソンには、ヒュームや後期ウィットゲンシュタインのように、自分の議論を直截的な言語や日常言語によって展開したり、あるいは、ニュー・クリティシズムや分析哲学派のように、言語そのものをその探求の主眼点とし、何を意味しているかを問い、文章構成が認識の可能性をいかにしているのかを明らかにして、言語と経験の諸関係を解明するという二つの伝統がある。プラグマティズムはちょうどその両面を持ち合わせている。子規が言葉の用法から蕪村を分析したのは、こうした思考とほぼ類似していると言ってよいだろう。

 ジョン・デューイは、『哲学の改造』において、「知性」は「道具」的性格を帯びていると次のように言っている。

 

理性とは実験的知性のことである。それは科学にしたがってかたどられ、社会的な創造につかわれる。それは、何かをしなければやまない。それは無知と偶然のために慣習でこりかたまった過去のきずなから、人間を解き放つ。そしてその働きは、つねに経験によってためされる。人間が形づくる計画と、外界をつくり変えるための手びきとしての人間が未来に向かって投げかける理論は、ドグマではない。それに実践を通して形づくられる仮説であり、現在われわれの経験にとって必要な指針を与えるかどうかによって、修正されたり、発展されたりするものだ。われわれはそれを、行動の指針と呼ぶことができる。そしてわれわれの未来の行動をよりはっきりと、見通しのあるものにするために使われる。したがってそれは、しなやかさをもたなければならぬ。

 

 「知性」は人間の生活過程における矛盾を解明し、その解決へと向かう「道具」である。それは固定されたものでも、もっぱら外界から与えられるものでもなく、生活経験の中でためされ、改変されていくものなのだ。使ってみなければ、それがいかなるものであるかわからない。こうしたデューイの主張は深遠でも難解でもなく、極めてシンプルである。これは一九一九年に日本の東京帝国大学で行われた講演であるが、聴衆にまったく理解されず、デューイは、日本に対して希望を抱いていたけれども、失望してしまった。そうした反応はドイツ哲学こそが哲学だと公認されていた日本では無理からぬことであった。当時の日本の知識人たちはアメリカをしょせん文化のない浅はかな物質文明の国と軽蔑し、いかにトロツキー裁判の調査委員にまで指名されるようなその国の最高の知識人の言葉であったとしても、聞く耳を持たなかったのである。デューイはドイツ哲学などに見られるタームをほとんど使わず、日常的な言語を用いて語っている。それも、また、哲学なのだということは認知されることはなかったのである。

 アメリカ哲学の三頭政治家とも言うべき三人のプラグマティスト、パース・ジェームス・デューイはドイツ観念論から強い影響を受けているが、ただそれを受けとることはせず、観念性による問題解消を経験によって再吟味するという転倒をしている。そもそも「プラグマティズム」の名前も、カントがpraktisch (無条件の動機主義)とpragmatisch (条件つきの結果主義)を対立させ、前者を選んだのに対して、パースが後者を選択し自らの立場に命名したものなのだ。アングロ・アメリカの知識人たちは発展途上にあった国家としての現状や独立戦争のこともあって、イギリスに向かわず、ドイツ哲学を選んだ。十九世紀までアメリカの数多くの研究者や知識人たちはドイツに留学している。彼らはドイツ観念論をアングロ・サクソン的に解釈し、独自の哲学を生み出した。それは国家としてのアメリカ合衆国の形成後に生じたのである。建国百年後の産業革命による産業資本主義の発達とネイティヴ・アメリカンに対する弾圧、フロンティア消滅宣言(一八九〇)の状況においてスペンサーが受け入れられ、プラグマティズムは用意された。スペンサー受容も彼の哲学がプラグマティズムと、ある種、同じ移送を保持していることが要因となっている。スペンサーは認識の相対性を主張し、すべての現象の背後に「不可知者」がいると考えているが、これはカントの現象と物自体のヴァリエーションであり、ドイツ観念論の経験論化である。スペンサーは一八六〇年代から一九〇〇年代までアメリカで莫大な数の著書が売れた。彼の「適者生存」といった発想が新興ブルジョワジーの正当化の哲学と受けとられた。南北戦争に象徴される(統一)国家形成のプロセスがエマーソンやホーソンといったアメリカ文学を生み出した。

 子規が生きたのは、スペンサーの読まれたアメリカと同じような環境下にあった明治という近代国家形成の時期である。子規の年齢は明治の年号に一年加えた数なのだ。明治が近代国家を確立しつつあった時期に子規はちょうど青年期を迎えているのである。昭和の年号と自らの年齢の一致する三島由紀夫が、昭和の空気を吸い、昭和の人間として生きたように、子規は明治の空気を吸って、明治の人間として生きていた。自由民権運動に影響され、政治家になることを志し、その目的のために、彼は十七歳で上京したくらいなのである。

 ドナルド・キーンは、『子規と啄木』において、子規について「子規にはその性格と彼の代表する明治中期という時代のために、何か我々を惹きつけて止まないもの」があると次のように述べている。

 

子規の歌や句は今日でも文庫本その他で版を重ねているが、その随筆はあまり広くは読まれていない。しかし私としては、「墨汁一滴」や「病牀六尺」に、明治の文学ではそれ以外に啄木の日記にしか見出せない魅力を感じて、私小説では、その作者の生活がいかにこまかに描写されていても、その中心になるものが抜けているという印象を我々が受ける場合が多い。それを書いた人間が、不幸で一人ぼっちで、あるいは社会から締め出されているということはわかっても、その人間が他の同じように神経質な人間とどう違うかがはっきりしないのであるが、子規の知性と生きることに対する貪婪な意欲は、そういう私小説の作家の陰気な内省の記録には稀にしか見られない活力を、彼の随筆に与えている。

 

 ドナルド・キーンは子規に私小説家の持たない分類化・差異化の精神を認め、子規の俳句や短歌以上に、それがよく表われている随筆を評価している。子規は、啄木とともに、知性に生きた数少ない短歌や俳句における文学者なのである。子規は日常生活でつきあたる具体的な問題を思考の対象としているため、外来のものに対して違和感を覚えていない。フランクリンやスペンサーに惹かれた子規の知性は日本的と西洋的の区別に彼を固執させはしなかった。彼の中てそれらは、何の抵抗もなく、結びついた。そんな抵抗感を覚えているよりも、彼にはまず生きることこそが大切だからなのだ。知性は、子規においては、生きることへの省察である。それは差異の中でいかに自分の生を希求するのかという倫理的姿勢と言うことができる。つまり、子規は俳句や短歌を美学的なものから、倫理的なものへと認識を変更して扱ったのだ。

 高浜虚子や河東碧梧桐などの子規の後継者たちは「子規の知性と生きることに対する貪婪な意欲」をまったく受け継ぐことはなかった。虚子は、子規の企てを、『柿二つ』における子規に関する記述が歪曲・誇張であるように、戦略的に理解しようとしなかった。俳句の五七五の十七音とか、季語とかを廃止するということが主張されていた時代に、虚子は、子規と同様、俳句の形式や伝統に固執した。しかし、それは子規とはまったく別の理由によってである。

 山本健吉は、『高浜虚子』において、子規以後の虚子の役割について次のように言っている。

 

碧梧桐が抱いた近代の詩人的決意を棄て、碧梧桐が棄て去った特殊文学としての俳句固有の方法論を追及し完成しようとした。言わば俳句が、近代の詩歌たらんとする誇りを棄て、大衆の深層との伝統的な繋りの糸をもう一度手ぐり寄せ、わが身に確保しようとしたところに、彼(=虚子)の成功の秘訣がある。加うるに、碧梧桐派の饒舌な理論闘争に対して、彼は無理論を以て拮抗した。そして大衆の支持を得るためには、この方がかえってよかったのである。

 

 虚子が俳句の一般的な権威とした『ホトトギス』に載せた多くの俳句における文学的価値の水準にははなはだ問題があるが、虚子の功績は俳句を大衆的な表現形式として保存した点にある。今日の(新聞などに欠かせない)俳句・短歌のあり方は虚子が用意したと言っても過言ではない。形式や伝統は、その反動的な目的のために、なければならなかったのである。知性など、俳句や短歌の大衆化には、厄介で邪魔なものにすぎず、彼は子規が示した理論的色彩をできるだけ弱めるべく企てたのだ。また、自然主義文学から影響を受けた自然主義的俳句や無中心論を唱えた河東碧梧桐も子規を真に理解してはいなかった。碧梧桐の代表的な句の「工場の建ちひろがる音のけふも西風の晴れ」は季語がなく、口語自由律であり、子規の意義を踏まえてはいるが、十七音よりも長くなっており、俳句の短歌化である。子規において俳句から散文への移行は不可逆であるのに、碧梧桐はむしろ俳句に散文の方法論を導入したのだ。その流れは季題無用論の荻原井泉水や自由表現論の中塚一碧桜へと続き、尾崎放哉の「咳をしても一人」においてその頂点を迎えるわけだが、しかし、子規の碧梧桐らへの遺伝は彼らの主張そのものにではなく、その「理論闘争」にある。「理論闘争」は必ずしも子規から隔たった姿勢ではないが、そのかたくなな排他主義は子規とはまったく反対の基盤である。従って、虚子にしても、碧梧桐にしても、子規が悪戦苦闘して分類化した枠組みの中でその枠組みを保持・修正することに終始していたにすぎず、「子規の知性と生きることに対する貪婪な意欲」が欠けているのだ。

 その「貪婪な意欲」は自分自身の世界に関する認識から生じているが、子規は、『病牀六尺』において、それを次のように書いている。

 

病牀六尺、これが我世界である。しかも此六尺の病牀が余には広過ぎるのである。僅かに手を延ばして畳に触れる事はあるが、蒲団の外へまで足を延ばして体をくつろぐ事も出来ない。甚しい時は極端の苦痛に苦しめられて五分も一寸も体の動けない事がある。苦痛、煩悶、号泣、麻痺剤、僅かに一条の活路を死路の内に求めて少しの安楽を貪る果敢なさ、其れでも生きて居ればいいたい事はいいたいもので、毎日見るものは新聞雑誌に限って居れど、其れさえ読めないで苦しんで居る時も多いが、読めば腹の立つ事、癪に触る事、たまには何もなく嬉しくて為に病苦を忘るる様な事が無いでもない。年が年中、しかも六年の間世間も知らずに寝て居た病人の感じは先ずこんなものですと前置きして……

 

 結核は子規の世界を「病牀六尺」にし、その結果、彼の社会的な対他関係や対人関係を狭くしてしまったかもしれない。結核にならなかったなら、彼の行動範囲はもっと広がり、さまざまなものや人と接触し、さらなる可能性が開けたかもしれなかった。しかし、彼はそのことにルサンチマンを抱いていないのである。子規にとって、結核は、ロマン主義文学とは違って、神話作用などというものを持たない自分に訪れてきた新しい現実にすぎなかった。確かに、子規の肉体は結核菌に冒されていたが、その精神は健康であった。彼は死に憧れることなく、いかにしてこの現実において最もよく生きられるかを模索している。子規は肉体的なのである。

 子規は新渡戸稲造が「賤技」と罵ったベースボールに熱中し、それをめぐる次のような短歌までつくっていた。

 

久方のアメリカ人のはじめにしベースボールは見れど飽かぬかも。

打ち揚ぐるボールは高く雲に入りてまたも落ちくる人の手の中に。

今やかの三つのベースに人満ちてそぞろに胸の打ち騒ぐかな。

 

 虚子や碧梧桐がこのような短歌をつくるとは、まず、考えられない。これらの短歌は今日に至るまでベースボールを詠んだものとしては最良である。ベースボールの日本語の訳語は子規の号升を捩って野球としたと楠木憲吉は説明しているが、ベースボールに野球という訳をつけたのは、池井優の『白球太平洋を渡る』によると、第一高等学校ベースボール部マネージャーの中馬庚である。『校友会雑誌』に部史を載せるために訳語が必要になったので、ポジションの訳と同時に、彼が「ベースボール」を「ボール・イン・ザ・フィールド」で「野球」にすることとしたのだ。子規のほうが升の代わりに野球を使っていたのである。ただし当時のベースボールはアメリカで二大リーグ制の誕生によって一九〇一年に始まる近代ベースボール以前のもので、ルールなどは−−当時はボールが四つではなく、六つで歩けたし、ホームプレートがベースと同じ正方形で厚みがあり、ホームベースだった−−われわれが馴染んでいるものと異なっている。そうしたことから考えても、子規がいかにハイカラな人間だったかがわかるだろう。手も足もでなかったカーブに頭を悩ませていた子規にとって、ベースボールをすることを許さない病気は苦痛以外の何ものでもなかった。そこには何の自己欺瞞も自己倒錯もない。苦痛を苦痛としてそのまま認知する子規は健康な精神の持ち主だったのだ。芥川は写生文を子規の「天才」に帰しているが、むしろ、彼の健康に帰するべきである。

 子規は病の床から言葉を発している。それは生きるということに、否が応でも、向き合わざるを得ない場所である。子規の思考はそうしたところにある自己に対する省察に基づいている。それは心理的なものを解釈することではなく、日常的な痛みや苦しみ、喜び、悲しみなどから出発することにほかならない。

 子規は、『墨汁一滴』六月十五日付において、学校での哲学の授業を次のように回想している。

 

明治二十四年の春哲学の試験があるのでこの時も非常に脳を痛めた。ブッセ先生の哲学総論であったが余にはその哲学が少しもわからない。一例をいうとサブスタンスのレアレテーはあるかないかというようなことがいきなり書いてある。レアレテーが何のことだかわからぬにあるかないかわかるはずがない。哲学というものはこんなにわからぬものなら余は哲学なんかやりたくないと思うた。

 

 子規は主観と客観、物質と精神、実在と唯名といった伝統的な哲学の議論を理解できなかった。観念的な議論が正しいか否かなどどうでもいい。彼にとって哲学はそうした概念から始まる議論ではなく、日常経験を対象とする思考であった。観念によって現実を飛び越え、そこにある矛盾・葛藤・摩擦などを解消することはできやしない。病気は病気であり、苦痛は苦痛であって、それは自らの生の条件であり、観念的に消失するものではないのである。そういう現実が自分自身に何をもたらし、生の実質を感受するにはどういう思考方法があるのかといことが彼の哲学にほかならない。

 そのような健康な精神を宿していた子規は、『獺祭書屋俳話』において、俳句や短歌は明治年間に尽きてしまうだろうと次のように大胆に予測している。

 

数学を修めたる今時の学者は云ふ。日本の和歌俳句の如きは一首の字音僅に二三十に過ぎされば、之を錯列法に由て算するも其数に限りあるを知るべきなり。語を換へて之をいはゞ和歌(重に短歌をいふ)俳句は早晩其限りに達して、最早此上に一首の新しきものだに作り得べからざるに至るべしと。

 

 而して世の下るに従ひ平凡宗匠、平凡歌人のみ多く現はるゝは罪其人に在りとはいへ一は和歌又は俳句其物の区域の狭隘なるによろずんばあらざるなり。人間ふて云ふ。さらば和歌俳句の運命は何れの時にか窮まると。対へて云ふ。其窮り尽すの時は固より之を知るべからずと云へども、概言すれば俳句は巳に尽きたりと思ふなり。よし未だ尽きずとするも明治年間に尽きんこと期して待つべきなり。短歌は其字俳句よりも更に多きを以て数理上より算出したる定数も亦遥かに俳句の上にありといえども、実際和歌に用ふる所の言語は雅言のみにして其数甚だ少なき故に其区域も俳句に比して更に狭隘なり。故に和歌は明治巳前に於て略々尽きたらんかと思惟するなり。

 

 この俳句・短歌命数論は子規の主張の中でも最も評価がわれている。子規は、俳句や短歌はその字数の順列組み合わせから見て有限であり、その命数は明治年間において尽きるだろう、と予言している。短詩型文学を支えているのは韻律である。散文に言い換えるとたいした意味を持たないとしても、短歌や俳句はそうした意味内容と離れて韻律によって成立する。だが、彼の主張する韻律は伝統的な韻律とは違って五七五の十七音や五七五七七の三十一音を意味しているにすぎない。子規は十七音や三十一音の持っていた過剰な意味づけを剥奪したのである。彼の「写生」が俳句から短歌そして散文にまで拡大されていったのは、彼の韻律に関する認識による。伝統的な韻律を教条的に保持しようとするだけでは、短歌は腐敗が起きてしまうだけである。和歌が腐敗した原因は「小さき事を大きくいう嘘」(『五たび歌よみに与うる書』)にあるが、しかし「和歌の精神こそ衰えたれ形骸を猶保つべし、今にして精神を入れ替えなば再び健全なる和歌となりて文壇に馳駆するを得べき事を保証致候」なのであり、「いかなる詞にても美の意を運ぶに足るべきものは皆歌の詞と申すべく、これをほかにして歌の詞というものはこれなく候」(『七たび歌よみに与うる書』)。そのため、子規は十七音や三十一音の韻律は残すものの、俳人仲間や歌人仲間の間でのみ通じるレトリックを「理屈」として否定したのである。それは子規が連歌を否定したことからも明らかであろう。従って、子規は、「ただ自己が美と感じたる趣味を成るべく善く分るように現すが本来の主意に御座候」(『十たび歌よみに与うる書』)、と主張するのだ。

 その「理屈」のために、子規は「和歌俳句の如き短き者には主観的佳句よりも客観的佳句多し」(『六たび歌よみに与うる書』)、と言う。子規の用いる「主観的」=「客観的」にはいささか注釈がいる。彼は伝統的哲学の議論に関して無関心であったから、「主観的」=「客観的」とは近代認識論や自然科学に基づいた二項対立を意味していない。このタームも彼はそうしたプロパーとは別の意味で用いている。

 子規は、『死後』において、「主観的」=「客観的」を次のように表わしている。

 

併し死を感ずるには二様の感じ様がある。一は主観的の感じで、一は客観的の感じである。そんな言葉ではよくわかるまいが、死を主観的に感ずるというのは、自分が今死ぬる様に感じるので、甚だ恐ろしい感じである。動気が躍って精神が不安を感じて非常に煩悶するのである。これは病人が病気に故障がある毎によく起こすやつでこれ位不愉快なものは無い。客観的に自己の死を感じるというのは変な言葉であるが、自己の形体が死んでも自己の考は生き残っていて、其考が自己の形体の死を客観的に見ているのである。主観的の方は普通の人によく起こる感情であるが、客観的の方は其趣すら解せぬ人が多いのであろう。

 

 「自己の形体が死んでも自己の考は生き残っていて、其考が自己の形体の死を客観的に見ている」という子規の主張は死んだら終りという認識ですらない。彼はそれをさらに極限化している。死んだら終りならば、せめて生きている間の自由が許されることになるが、それも許されないのだ。「客観的の感じ」は自己の相対化であり、「主観的の感じ」は自己の絶対化なのである。子規は感情を表現することを嫌った。感情は「主観的の感じ」にすぎないからである。子規は自分の病気や死を人ごとのように語っていて、どこかユーモラスですらある。「写生」はこうした認識から生じているわけだが、子規の「写生」は虚子や碧梧桐においてではなく、むしろ、「叩かれて昼の蚊を吐く木魚哉」や「寒山か拾得か蜂に螫されしは」といったユーモラスな句をつくった夏目漱石において最も生きていった。ユーモラスな俳句は漱石以後ほぼ消滅してしまう。ユーモアはアングロ・サクソンの笑いであり、ドイツ志向やフランス志向ではそういった笑いを味わうことができなくなるのは当然の帰結である。病に苦しむことは誰にても起こる「主観的の感じ」であるが、病を見つめることは誰もができるということではなく、「客観的の感じ」なのである。病にあって可能なことは病を見つめるかか否かという自由だけなのだ。これは病に限らない。孤独でも、老いでも、狂気でも同じことが言える。自由とは思うがままになるとか主体が解放されているということではない。人間にある自由はこのようなものだけなのである。苦しんでいたり悩んでいたりして自分の世界に入りこんでいる姿ほど見ていて笑えるものはない。他者から笑われたとき、人はその世界が没落していくのを感じ、健康さを回復するのである。

 そうした健康さは笑いを子規に喚起しているわけだが、彼は、『墨汁一滴』三月十五日付において、病に苦しんでいたことからキリスト教への入信を勧められたことについて次のように述べている。

 

耶蘇信者某一日余の枕辺に来たり説いて曰くこの世は短いです、次の世は永いです、あなたはキリストのおよみ返りを信ずることによって幸福でありますと。余は某の好意に対して深く感謝の意を表する者なれども、いかんせん余が現在の苦痛あまり劇しくしていまだ永遠の幸福を図るに暇あらず。願わくは神まず余に一日の間を与えて二十四時間の間自由に身を動かしたらふく食を貪らしめよ。しかして後におもむろに永遠の幸福を考え見んか。

 

 日本の知識人でこれほどのユーモアを言い放つことができるのは、まず、ほとんどいない。ユーモアとは愛の笑い、忘却の笑い、肯定の笑い、永劫回帰の笑い、ルサンチマンのありようを意識化したときの笑いである。あるいは、ユーモアは現実を「われ欲す」という態度で迎える笑いと言ってもよい。と同時に、笑いがあってこそ、「われ欲す」と現実を肯定することができるのである。つまり、ディオニソス的肯定による笑いがユーモアなのだ。「深く傷心するものがオリュンポスの笑いをもっている。私たちは、おのれが必要とするもののみを所有するものである」(ニーチェ『力への意志』一〇四〇)。他方、ロマン主義者の所有している笑いはアイロニーであって、アイロニーはかくあったならば、こうでなければならないというルサンチマンが生み出す笑い、憎悪の笑い、否定の笑い、怨恨の笑い、復讐の笑いである。アイロニーはみみっちいのだ。ところが、ユーモアは太っ腹である。あるがままの世界に対する然りへの一つの意欲こそがユーモアの笑いの核心にほかならないのだ。ニーチェは、『力への意志』一〇四一において、「運命愛」を次のように書いている。「あるがままの世界に対して、差し引いたり、除外したり、選択したりすることなしに、ディオニソス的に然りと断言することにまで−−、それは永遠の円環運動を欲する、−−すなわち、まったく同一の事物を、結合のまったく同一の論理と非論理を。哲学者の達しうる最高の状態、すなわち、生存へとディオニソス的に立ち向かうということ−−、このことにあたえた私の対式が運命愛である」。運命を恨む前に、運命を笑いで切り返す。そのとき、運命は望ましいものとなるだろう。例えば、ある病に倒れた人が、まさに死んでしまわんとするときに、「どうして死ななければならないのか。私が何をしたと言うのか。こんなに信心深い私を助けてくれなかった神を憎む」と叫んだとしたら、運命は白眼視するだけだろう。だが、その人を見守る周囲に向かって、「心配するな。これから神様のところいって、賽銭とりかえしてくるから」、と微笑むなら、運命は一本とられたと思うだろう。このように運命に一本とられたと思わせることがユーモアである。「運命愛」はたんに運命を愛するだけではなく、一本とられたと感じた運命から愛されることをも同時に意味している。ユーモアはこの「運命愛」の笑いにほかならないのである。

 俳句や短歌の革新に熱心にとりくみながら、子規が俳句・短歌命数論という俳句・短歌の没落を主張したことは、病に対する「主観的の感じ」と「客観的の感じ」の二重化、すなちユーモアの精神から見ても、決して矛盾しない。没落していくならば、それを恨むことは病的であるが、よりよく没落することを意欲することは健康的である。つまり、子規にとって、俳句・短歌はデカダンスなのだ。

 俳句や短歌は、確かに、明治年間ではなくならなかった。俳句や短歌は、子規が俳句や短歌の没落を予言してから、半世紀あまりも生き延びることになったのだから。しかし、それは子規が用いた分類と「写生」の手法をアイロニカルに利用し繰り返すことによって生き延びていったのである。虚子や碧梧桐は子規のある面をそれぞれに受け継いだ。虚子は経験的側面を、碧梧桐は理論的側面を受けとり、子規に対して子規でもって批判することを反復していたのである。ただし寺山修司は権威としての俳句の死に気づいていた。寺山修司の目の前にあった俳句は、もはや、文芸様式ではなかった。寺山修司は、『誰か故郷を想はざる』において、俳句は「亡びゆく詩形式」であり、俳句の世界では「自分の作品の実力ばかりではなく、選者への贈り物、挨拶まわりにも意を払う」ような文学以外のものが盛んであったと言っている。「この膨大な産業の世界での地位争奪戦参加の興味は、私に文学以外のたのしみを覚えさせた。私は、この結社制度のなかにひそむ『権力の構造』のなかに、なぜか『帝王』という死滅したことばをタブルイメージで見出した」。寺山修司は俳句の没落を意識し、そのデカダンスを味わっていたのである。俳句や短歌が権威として復活することはもうない。俳句や短歌はデカダンスとして生きていくほかないのだ。デカダンスを経験するためにのみ俳句は生きていくのである。俳句や短歌は、「自己の形体が死んでも自己の考は生き残っていて、其考が自己の形体の死を客観的に見ている」ような、一つの文学的な記憶としてのみある。子規がそれに望んだのはそうした「客観的の感じ」だった。俳句や短歌とは、今や、耐え難いようなデカダンスを秘めた一つの試練なのである。デカダンス自体は、言うまでもなく、文学の契機であっても、目的にはならない。デカダンスは滅びの美学といった自己倒錯的・自己欺瞞的なアイロニーではなく、それは自らの存在を正当化するための隠語を用いるゲットーの自己破壊、誠実なる没落を意味しているのである。

 俳句・短歌命数論は代数学的である。日本文学では代数学的理論は少ない。代数学はアラビアで発達し、その後、ルネサンス期のイタリア、さらに、オランダ、イギリスへとその中心が、経済の中心地の移り変わりとパラレルに、移動してきた。例えば、福利計算を容易にする対数の完成していくプロセスはこの移動の道程をたどっている。つまり、代数学は商業と密接な関係にある。商業を嫌悪する日本文学が代数学を避けるのはそのためなのだ。

 子規が俳句や短歌に見出したのは一つの極限である。俳句や短歌を通して文学を見るとき、そこにあるのは過去の作品の繰り返しなのだ。子規の作品の中で優れたものは過去の俳句や和歌を踏まえたものであるが、それはたんなる形式的な反復ではなく、デカダンな反復なのである。それゆえ、俳句・短歌命数論は終わり=始まりの論理ではない。この理論は、文学的な、一つの質量・エネルギー保存の法則であり、それは字数の有限性と言葉の数の有限性という二つの根本命題から成り立っている。この理論を字義通り真面目にとるべきではないという批判があるが、むしろ、大真面目に受けとる必要がある。例えば、ノーバート・ウィナーはフーリエ変換や確率過程などの数学の個別的業績において生前は評価されていたが、今や当時は大法螺話とされていたサイバネティクスにおいて認められているのだ。確実な個別的な業績の総和以上に不確実な法螺のほうが後世においてその可能性を発揮することは少なくない。従って、俳句・短歌命数論は子規の主張の中で最も受けとめなければならないものなのだ。俳句・短歌命数論は一つのニヒリズムであるが、彼のユーモアが能動的ニヒリズムの表われであるように、それは能働的なものである。俳句・短歌命数論を退けるものたちは受動的ニヒリズムにたちどまっているにすぎない。それゆえ、われわれが目指すべきなのはその先にあるものなのである。

 だから、今日、俳句や短歌は無関心にさらされているが、それは俳句や短歌が死んだことを意味しない。俳句や短歌はもはや強力な転倒力を持っていないとしても、過剰につけられていた権威や意味が消え、一般に浸透したのである。俳句や短歌はその領域の内部においてではなく、その外部においてはるかに機能している。俳句や短歌のデカダンスに感染しているのだ。俳句や短歌のデカダンスは政治的に働き、ナショナリズムという症候群を引き起こすのである。例えば、虚子は俳句や短歌の感染力を、意識的に、組織化した。しかし、子規は俳句や短歌の権威に無関心であったが、それらのデカダンスには自覚的だった。つまり、俳句や短歌のデカダンスから逃れることは不可能であって、それに対して自覚的である必要があるのだ。

 俳句や短歌は、言うまでもなく、子規の提示した原因によって没落したわけではないだろう。俳句や短歌は自らの前提によって没落することになったのである。例えば、鎖国と商業経済の発達、武士階級の衰退とともに隆盛し始めた俳句は、その前提がある歴史的・社会的状況の下でのみ可能な文学様式だった。それが崩壊するとともに俳句も、また、衰微していったのだ。

 明治に入って、俳句や短歌が隆盛していくのは、近代日本文学の生成とパラレルである。近代日本文学が確立したとき、俳句や短歌は一つの文学ジャンルに落ち着いた。以後、俳句や短歌は、むしろ、それ以外の文学ジャンルの中で、中野重治の『歌のわかれ』が示しているように、生きていくことになった。

 近代日本文学の確立を可能にしたのは近代国家の成立や商業資本主義から産業資本主義への発達である。近代日本文学は一文学ジャンルにすぎない小説をメタ・レヴェルとして成立した。高度経済成長、すなわち消費資本主義の発達によって小説は一文学ジャンルになった。小説が一文学ジャンルになったとき、近代日本文学は変形せざるを得なくなった。小説の発達がさまざまな文学ジャンルの差異を覆い隠した。それぞれの文学ジャンルが平等であったことはこれまでなかった。何かしら一つの文学ジャンルをメタ・レヴェルに置いていた。小説が発達したとき、文学ジャンルが意識され始めたが、それは産業資本主義が登場してからのことである。子規は分類しているが、そうした分類は商業資本主義の時代の特徴である。商業資本主義の頃の分類は、日本の明治維新のイデオロギーが杉田玄白や高野長英などその研究者から伝わったように、比較解剖学の発達に代表される。ケネーの『経済表』やアダム・スミスの『諸国民の富』はリンネの分類学やビュフォンの『博物誌』と同年代である。分類は差異の認識であり、商業は差異によって成り立つから、商業資本主義の時代は分類が盛んなのだ。商業の進展が工業の発達を促し、その結果、工場内分業を生じた。アダム・スミスの(工場内)分業概念は、デュルケームの『社会分業論』によれば、生物学に影響を与えている。つまり、この時代の分類はこの分業システムに基づいているのだ。分業はさまざまな部分が一つの均質なシステムによって成立しているのである。均質な空間に事物が属していることが認められたとき、空間的な分類が時間的な分類へと転換した。分業が商業資本主義から産業資本主義を導くのである。

 分類は、言うまでもなく、商業資本主義の時代だけに限定されはしない。古代ギリシアのアリストテレスもさまざまな領域に渡って周到かつ詳細に分類化している。だが、アリストテレスは奴隷制を採用していたポリスとその外部の差異の中で考えていたため、そこにある事物は同質の世界に存在するものではなかった。市民は市民であり、奴隷は奴隷であり、アテナイはアテナイであり、ペルシアはペルシアであった。それらは一つの世界にあるものの、まったく異質のテリトリーに属しており、決して入れ代わるものではなかった。

 マルクスは、『資本論』において、アリストテレスの考察と古代ギリシア的な世界の関連を次のように述べている。

 

ギリシアの社会は奴隷労働にもとづき、かくして人間および彼らの諸労働力の不等性を自然的基礎とした。(略)アリストテレスの天才は、まさに、彼が諸商品の価値表現において一つの同一性関係を発見したという点に輝いている。ただ彼ば、彼の生活した社会の歴史的な棚に妨げられて、この同一性関係なるものは、いったい『真実には』なんであるかを見出すことができなかったのである。

 

 ギリシアは雨も少なく、山がちで、痩せた土地であったため、せいぜい果樹栽培ができる程度であった。古代ギリシア人は地中海に進出する必要に迫られた。アテナイは地中海進出によって繁栄したポリスの代表である。今、そのアテネでは、自動車の排気ガスによる大変な環境の悪化が懸念されている。アテナイで民主制が生まれたのは、農業ではなく、商業貿易を主要産業としていたからである。ただし、アテナイの民主主義は選挙を意味しない。アテナイにおいて、選挙は貴族政治に属している。当選者が世襲を含めて長期的に固定化し、腐敗の温床だからだ。むしろ、民主政の基礎は輪番制である。軍事を除く、公職は抽選で選ばれ、任期も短期間である。抽選は人知を超えた神の意思が反映され、政治は一部のエリートではなく、民衆によって実施されるべきだからである。選挙の弊害を補うために、デマコーグの登場の一因ともなった陶片追放が採用されている。民主主義が普及した地域で、選挙が民意を反映していないという理由から、投票率が下がるのは当然の現象であろう。アテナイ市民よりも近代人は、政治的感覚において、後退している。古代ギリシアでは例外的に穀物自給ができたスパルタは軍国主義だった。また、ペルシアなどエジプトやオリエントでは専制政治であった。民主制を採用していた国のほうが、紀元前の時代には、圧倒的に少なかったのである。商業はコミュニケーションや契約といった売買の関係によって成り立つわけだから、民主主義は商業と切り離せない。スパルタの奴隷は過酷な農耕労働に従事させられていたため、反乱を頻繁に起こした。スパルタの国策と生活様式は最初から、いわゆるスパルタ式だったのではない。スパルタは、元来、外国に対して開放的だったのに、反乱が発生する度に、閉鎖的になり、金銀を含めた外部のものを排除するようになったのである。軍事力をいくら強化しても、スパルタ内部はスパルタ人−ペリオイコイ−ヘロットの三層の階級構成はたえず倒壊の不安にさらされていたのだ。一方、アテナイの奴隷は家内奴隷が中心で、生産奴隷は鉱山や手工場で使われ、反乱などはめったに起きなかった。スパルタは奴隷の反乱を抑えることが国家としての主要な課題の一つであったために、とても民主制など選択できなかったのである。

 ジョン・デューイは、『民主主義と教育』において、民主主義はコミュニケーションと密接な関係にあると次のように言っている。

 

民主主義とは、たんなる政府の形態ではない。一つの集団生活の形式であり、相互の経験を全員が共同に理解しあうような生活形式である。各人が共通の利害をわかちあっていれば、各人が行動する場合には必ず他人の行動を考慮し、他人の行動をもって自己の行動の方向を決定することが必要である。

 

 民主主義はコミュニケーションに基づいているが、もしコミュニケーションを肯定するならば、自らの生が自分とはまったく別の倫理や論理を有した人間との妥協の産物であることを認めなければならない。コミュニケーションは快楽よりもはるかに苦痛をもたらすから、人間は、本質的に、それを望んではいないのである。しかし、その苦痛は、人間が生きていく際に、つきまとってしまうものなのだ。人間にとってその苦痛は生の根源でもある。人間にできるのは、その苦痛をあえて引き受けることにおいてのみ快楽を創出することしかない。その苦痛に対して然りと言うならば、苦痛はその生を慰め、励ましてくれる。もしその苦痛を厭うならば、それ以上の苦痛がおそいかかることになる。民主制は、そうした時、他者を排除し、共同体強化の機能を果たしてしまう。アテナイが民主制を採用しながらも、極めて好戦的であったように、民主主義の不安定さはこのコミュニケーションの危うさである。

 小説は一文学ジャンルなのだが、固定できる定義はなく、他の文学ジャンルに対する鏡のような存在である。近代小説は文学ジャンルを消滅して登場したのであって、近代小説の衰退は文学ジャンルの復活にほかならない。小説は諸ジャンルのクロス・オーバーであり、フュージョンなのである。今日の書き手たちはジャンルを意識していないが、現実にそうなっている。それは近代小説という貨幣をなきものと見る企てでもある。近代小説は文学形式における貨幣と言っていいだろう。近代小説という貨幣は、金や銀によって鋳造されているわけではなく、紙幣なのである。

 「写生」は近代小説以前の文学の諸ジャンルを可能にしていた文体である。文学の諸ジャンルとは演劇や詩、小説らの区別だけでなく、その中の悲劇や喜劇、ロマンス、アナトミーなどといった分類も含む。当初、一般の読者は、漱石の『吾輩は猫である』や『坊っちゃん』が売れたように、近代小説を求めていたわけではなかった。しかし、近代国家や産業資本主義が発達するにしたがって、近代小説が中心に売れていくようになった。近代小説は読者層の拡大とともに確固たるものとなっていく。

 中村光夫は、近代日本文学には大きな詩の運動が欠けている、と言っている。詩の運動は、ヨーロッパでは、近代国家へ向かう、そして商業資本主義から産業資本主義へ至る過渡期においてロマン主義文学やシュトルム・ウント・ドランクなどとして見出される。一方、日本ではこの時期が極めて短かったため、あることはあったが、本格的な運動になる前に、詩はすぐに近代小説へと回収されてしまったのだ。それを端的に表わしているのは石川啄木の生涯である。彼は歌人として期待されてデビューするが、すぐに短歌自体が売れなくなってしまう。その代わりに詩が流行したので、新体詩へと移行するものの、時代の中心は小説へと移り変わるが、「およそ形式というものによる拘束に耐えられなかった」啄木は小説にはとうとう転回できず、二十六歳の若さで、貧乏生活の中、亡くなることになってしまうのだ。ドナルド・キーンが、『子規と啄木』において、「恐らく、結婚と金がないことが自分の不幸の原因だという啄木の主張にもかかわらず、その本当の理由は、彼に小説が書けなかったことにあったのではないかと思われる」と指摘しているように、啄木の不幸は時代を先どりしすぎていた文学者の不幸ではなく、小説中心の時代になったにもかかわらず、彼が本質的に小説家ではなく詩人であったため、小説が書けなかったことから生じたのである。日本では、短歌から新体詩、そして小説への変遷はわずか十年の間の出来事だった。ところが、ヨーロッパでは、詩の運動を中心としたロマン主義文学は、この区分に関するさまざまな解釈があることは認めた上で、とりあえず紋切節的に言うとすれば、半世紀以上はゆうに続いたのである。

 ロマン主義や近代小説が登場してくる背景は、イギリスを中心に見ると、次のような歴史的・社会的変化に基づいていた。十六世紀以降の重商主義による民間資本の蓄積、海外市場の拡大は資本制生産様式の初期段階であるマニファクチュアを成立させたが、十八世紀の農耕だけでなく、羊毛・毛織物も発達することになる(原料農業から食料農業への)農業革命による安価な労働力の大量出現や科学・技術水準の高さ、領域内の資源の豊かさ、市民革命による企業や新技術採用の大幅な自由化、などの要因からイギリスで産業革命が進展した。まず、繊維部門と製鉄部門が進展し、蒸気機関が全分野の動力源となった。十九世紀には、交通運輸部門が発達した。イギリスで経済学が発達したのは、彼らが経済活動という日常経験から出発する方法論をとったからであると同時に、経済活動が経験論を導いたのである。資本主義は、狭義では、商業資本と対立した産業資本を中心とし、流通方式ではなく、生産方式に基づく産業革命で確立した近代社会の経済構造を意味している。しかし、消費資本主義の段階に入ると、生産だけでなく、流通方式が復活してくる。消費資本主義は貨幣をどうでもいいものと見なし、その代わりに信用によって幻想的に体系を構成するのである。産業資本が商業資本を抑圧・隠蔽してきたことが顕在化する。マルクスが、古典派経済学者たちと違って、商業資本に着目したことは、産業資本の仕かけた罠にひっかからなかったことを表わしているのだ。

 産業資本主義、すなわち生産手段を所有するブルジョワジーと労働力を持つプロレタリアートを基本に形成する経済構造は、表面的にはそう見えないとしても、あくまでも流通方式に組みこまれているのである。産業資本主義は、商業資本主義では露呈していた流通=コミュニケーションを邪魔なものとして、隠蔽する。そして、産業資本主義は近代国家を用意し、商業資本主義の抑圧がロマン主義文学を呼び起こすのである。俳句や短歌は過去の作品に依拠しているため、コミュニケーション=流通が不可欠であるが、流通を隠蔽した産業資本主義の時代にあって、それらは抑圧されるほかない。ロマン主義文学の多くはコミュニケーションに対する嫌悪があり、ロマン主義文学がナショナリズムにつながるのはここにある。

 谷川俊太郎の『朝のかたち』の「あとがき」はこの癒着を端的に示している。

 

ただひとつの書きかたを、年を重ねるにつれて辛抱強く成長、変化させてゆく、そういう書きかたに憧れながら、自分にはそれができないと自覚するようになったのは、この詩集に収められた作品を書くようになってからである。詩史、文学史というようなものに無関心で書き始めた私は、自分の書くものの縦のつらなりよりも、むしろ横のひろがりのほうに関心がある。

 後世をまつという気持ちは私にはなく、私はもっぱら同時代に受けたい一心で書いてきた。それも詩人仲間だけでなく、赤んぼうから年よりまで、日本語を母語とする人々すべてにおもしろがってもらえるような詩を書こうとしてきた。私にあるのは、ひどく性急な野心の如きものだろうか。だが、その野心を支えたのは、私自身ではない。私をはるかに超えた日本語の深さ、豊かさなのだ。

 

 

 これがロマン主義者かつナショナリストの典型的な認識なのだ。これこそが最も政治的に機能するイデオロギーなのである。谷川俊太郎をの読者はこのイデオロギーに共感するのだ。ロマン主義は直前の時代と断絶し、はるかそれ以前の過去に遡行し、自らの起源を見出す。子規は過去の作品を重視したが、彼以後の俳句や短歌は過去の作品と断絶している。過去とのコミュニケーションを断つということによって自己充足性が生じる。ロマン主義は過去の作品を読む=コミュニケートするのではなく、それと一体化することを望むのである。ロマン主義者は、内面を伝える話し言葉と違い、書き言葉を二次的として退ける。だが、種子島での鉄砲伝来は、書き言葉によるコミュニケーションなくしてはありえなかった。ポルトガル船に乗りあわせた中国人と種子島の日本人との間で漢文による筆談で商談が成立し、鉄砲の売買が可能になったのである。ロマン主義者はこうしたコミュニケーションを無視する。彼らは「母語とする人々すべて」による「共同幻想」(吉本隆明)を構成し、それを理解しないものたちを拒む排他的・閉鎖的な所有主義者なのだから。国家主義はこの所有主義の組織化と言っていいだろう。同様に、ロマン主義的転倒力から派生した近代小説は共感に基づいているが、共感、すなわち「感情転移」(フロイト)もまたコミュニケーションの排除の一つの様式なのである。けれども、ロマン主義文学も近代小説も出版流通産業の発達によって普及したのだ。流通=商業なくして彼らの文学はありえない。ところが、彼らほど商業を嫌悪する文学者もいないのである。コミュニケーションは「交通」(マルクス=エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』)にほかならない。日本人は、道路や空港を見ただけでも、交通に関する認識が弱いことがわかる。交通は使用者のためではなく、役所のためのものなのだ。この交通概念は、ある時期、日本の批評において、流行として用いられ概念であるが、この概念は比喩として極めて示唆的であり、われわれはそれをより吟味する必要がある。コミュニケーションに対して抵抗感を覚えることは「去勢」(フロイト)である。いかに猛々しいことを叫んでいたとしても、コミュニケーションを拒むものは「去勢」されている。ロマン主義文学や近代小説は「去勢」の文学にほかならないのだ。しかし、ロマン主義文学や近代小説を退けることをしてはならない。と言うのは、それは彼らと同じ所有主義的選択・排除をするにすぎないからである。むしろ、われわれはそれらに対して自覚的・批判的になり、免疫力・抵抗力を持つことが肝要なのだ。

 俳句にしても、短歌にしても、翻訳が度外視された文芸様式である。西洋における文学は翻訳によって生まれてきた。翻訳に耐えられなければ、文学作品として生き残ることなど許されやしない。短歌や俳句は、本質的には、日本語特有の表現方法の確立ではなく、漢文への回帰を目指している。われわれは俳句を先に最も短い詩の形式だと主張したが、字数だけを比較するならば、多くの古体詩の中の古詩に分類される漢詩のほうが少ない。もっとも古体詩の楽府体にはあまり規則性はないし、近体詩になると、絶句・律詩・排律(長律)が登場し、俳句よりも字数が多くなってしまう。古詩は、短歌や俳句以上に少ない文字ではるかに厚みのある世界を提示する。漢詩は楽しい。漱石が親しんだのも理解できる。あくまで短歌や俳句は漢文の翻訳であり、そこで意味を持つ。短歌や俳句は、翻訳で鍛えられてきた西洋文学に比べると、あまりに脆弱であり、その西洋文学を相手に生き延びることはほとんど絶望的である。子規は翻訳の問題に直面していた。彼はベースボールなど外国の言葉を日本語に翻訳した言葉を俳句や短歌に導入するという手法を模索した。俳句や短歌は、若干、それによって息をふきかえしたのである。だが、その逆の事態に対応できる力は、子規は日本語の表記法の改革によって対処しようとしたけれども、俳句や短歌にはなかった。確かに、翻訳することは試みられてはいるが、それは不十分でしかない。翻訳とはその言語の外部とのコミュニケーションである。それによって主語の不明確さと名詞中心の特徴を持つ日本語が規定する思考方法の自明さもイデオロギーだということが明らかになる。俳句や短歌は翻訳に直面したとき、初めて、外部の存在を発見した。俳句や短歌は文学の有たい類にほかならない。有たい類が、オーストラリアにおいて、ヨーロッパ人が連れてきたディンゴによって脅かされたように、翻訳によって俳句や短歌は、子規が予言した通り、もはや権威としては死ぬしかなかったのである。それらは権威的に死去したのだが、それは終焉を迎えたのではないのだ。終わったとすれば次が探されなければならない。しかし、実際には、始まりも終わりもないのである。明治期の俳壇の問題は芭蕉以前に起こった貞門と談林の対立や西鶴の大矢数、さらに芭蕉以後の蕉門の分派・対立のヴァリエーションにすぎないのである。俳句の問題はその時期から新しい問題はなく、問題が繰り返されていただけだったのだ。子規はそのことに気づいていた。彼か説いたのは俳句のよい没落−−反動的になることなく、没落するものを没落するものとして扱うことによって救うこと−−である。俳句や短歌の復権を唱えることはもはやできない。俳句や短歌はデカダンスなのだから。言葉という質量が消滅するとき、エネルギーを発する。文学はこのエネルギーを利用している。子規の命数論は文学の質量・エネルギー保存の法則である。「自己の形体が死んでも自己の考は生き残っていて、其考が自己の形体の死を客観的に見ている」態度を俳句や短歌に対してとらなければならない。

 俳句が、日本語をネイティヴな言語としない人たちや若者の間で、流行したとしても、それが俳句ルネサンスにはつながらない。彼らが俳句をつくるのは川端康成や三島由紀夫が日本の古典に向かったのと同じ理由である。川端や三島は、アイロニカルな意味において、前衛的と感じられたがゆえに、「美しい日本の私」を見出すのである。短歌が、俵万智を代表する歌人たちのロマンティック・アイロニーに満ちた作品によって、一般に広まったことがあったことをわれわれは忘れてはならない。つまり、われわれは、子規が予言した俳句や短歌の没落を受けとめた上で、それらをデカダンスとしてよりよく没落することを経験する必要があるのだ。そう、今はもう「俳句とは何か」や「短歌とは何か」が問われることのない時代なのであるから。

〈了〉

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